かけらたち


景色のかけら

写真を撮るということ

ちょっと前までは、プロのように撮る必要はなかった。
自分の好きなものを好きなように撮っていれば良かった。素人だからとか、そういうものを言い訳に出来た。
仕事をするようになっっても、写真を撮ることは趣味の範疇を出なかった。
けれど、このごろ写真を撮る仕事が新たに増えた。無論、製品を撮ることが主で、「写真」そのものが「仕事」なのではないのだけど。
でも、意識が変わりはじめる。「こんなふうに撮ってほしい」という要求に答えなければならなくなった。また、「魅力的に撮るにはどうしたらいいか」ということも考えなくてはならなくなった。
そのことは、半分ぐらいはプレッシャー、自分の「撮りたい」という気持ちへの「抑圧」で、でも半分は今まで曖昧にしてきたものと向き合う良いチャンスになった。・・・と、思うことにしている。

 実際に、今までには無い感覚でファインダーをのぞいている。撮るカット数も増えた。
夕方、沈みゆく陽をあびる立山が好きだ。この時期は田んぼに水が入って、そこに立山が映り込む景色はなんともいえない。
今日は風のせいか水面が乱れて映っていなかった。
そのかわり、立山に船首を向けたボートを発見。山に向かって漕ぎ出すのをイメージしたが、うーん、なってないね。
もっと近くから撮るとか、構図を考えてシャッタをきるようにしないと。
この時期の夜、星や月が明るいと、山陰や住宅が手前の田んぼに映ってとても幻想的な風景になる。また夕暮れどき、高台から町を見下ろすと、田んぼに夕日の金色が映って、まるで眼下にも空が広がるよう。
撮りたいものは尽きません。

 1列に並ぶ電柱と立山。
なんだっけ、小学校かな、中学校かな、教科書だと思うけど、こう、嵐の日だかに電柱がそろって歩き出す、というお話を読んだかすかな記憶。
てくてく、のしのし、山に向かって歩き出す電柱の幻想。
電柱や電線は、写真のレタッチ時には邪魔者でしか無い。美しい風景の中に電線や電柱があると引っこ抜いてしまいたくなる。
でも、同時に、電柱は町には必ずある風景で、それが夕暮れの、なんともいえない物悲しさの中にあると、郷愁を誘うというか、「ああ、帰ろう。」という思いを強くさせる気がする。
憎らしいけど憎めない。
夕日に染まる町、シルエットの電柱、ぽつぽつと点りはじめる街灯。どこかの家から漂う夕飯の匂い、カラスの声と連なるシルエット・・・なんとなく心の中にある「ああ、帰ろう。」の風景。

 人の目は不思議。
明るい空を捕らえながら、同時に写真では陰になっている部分も、そのテクスチャをはっきりと捉えているのだ。
コンクリートの堤防、テトラポットひとつひとつの形、それらを捉えながら同時に夕日の眩しさに目を細める。
この写真で同じことをしようとすれば、テトラポットと堤防の部分と空や海の部分を分けて露光を調節しなければならないのに。
人の目とカメラの目との根本的な違いを感じてしまう。
まあ、多分、技量の問題なのでしょうけど。

うーむ、色合いはほどほど表現出来た気がします。
手前の低い雲が無ければなあ、と思うのですが。そして、もうちょっと全体的に色が濃かったかなあ。
まだまだ精進ですね。