1.赤(虹色)
可視光線の中で、最も長い波長を持つ赤。
炎の色や血の色を連想させ、またあたたかいと感じる暖色の筆頭とも言える。
否、あたたかさを超えてそれは熱さを連想させるだろうか。火を手に入れ、動物の中で一歩秀でた存在となった人間、
そのヒトにとって赤という色は、最も身近な色であることは間違いないだろう。絵画の色彩としての赤で、最も優れた赤を生み出した画家を挙げよと言われると、多少選出に苦しむ。
優れた赤を持つ画家は多い。
しかし、強いてひとり、素晴しい赤を選ぶならば、私はこう答える。ヤン・ファン・エイク。
他にも優れた赤をもつ画家は多かろう。私の選出に満足しないものもいるだろう。
私の趣味が偏っていることに言い訳はしない。
美術愛好家と名のれるほど多くの作品を見てきたかと言えば、そんなことは決して無い。
これは個人的な好みであり、偏見とも呼べるものだと思う。けれどあえて、この人を選ぼう。
幾千の賞賛に値する画家、彼の描いた赤を。
…と、まあ、ちょっぴり固い書き出しで始めましたが、物事、形式も大事ですしね(意味不明)。
ええと、本当の前書きはここからです。
ちょっと趣向を変えまして、100題1番から7番までは、絵に描かれた色をテーマにお送りいたします。
マイナな画家も出てきますが(というより、初っ端から出てきますが)御勘弁を。
また、専門的なお話はなるべく無しで、見たままの印象から色々語りたいと思います(というか、専門的な話なんぞ、できるほど勉強家でも無いので(滝汗))。間違ったことを言っていたり、最新の研究結果と異なることを話していたりもするかも知れませんが、ご了承下さい。あと、背景が暗いせいで、イメージもちょっと暗いですが、明るくいきます。
黒い背景の方が、絵が引き立つので…と、それは幻想?ヤン・ファン・エイク、Jan van Eyckは15世紀ネーデルラント(現在のベルギーとかオランダのあたりの総称)の画家です。ネーデルラントとは低地地方と言う意味。
ヤンにはフーベルトと言う名前の兄がいて、兄弟で絵を描く仕事をしていたようです。また、油絵の技法を生み出したのはこの兄弟であると言う話もありますが、はっきりしたことは分かっていません。むしろ、油彩と言う技法を広めたのがこの兄弟であったということなのではないかと。ま、長話もなんなので、まず作品を。
って、部分図かよ、って。
大きな画像を見たい方はこちら(103kb)。
もっと大きな絵を見たい方はこちら(552kb)をどうぞ。でも、めっちゃ重いですよ〜。この作品は《ヘントの祭壇画》と呼ばれるものの一部分です。ヘントは地名で、今のベルギーの一都市です。
祭壇画は、一枚絵としても描かれたのですが、複数の画面で構成されるものも多かったのです。主流だったのはトリプティック、三連祭壇画と言われるもので、真ん中の大きな一枚と、開閉式の二枚の両翼から構成されます。一枚の絵に扉がついているようなものです。屏風を想像してもらえると分かりやすいかと。両翼部分は裏表両面に絵が描かれました。閉じている時と開いている時は別の絵が見えると言うことです。
さてこの《ヘントの祭壇画》も複数の画面で構成される作品ですが、その画面の数はうーんと、開いた状態で、ちょっと小さめの画面もあわせると14枚でしょうか。とても大きな作品です。見ていて首が痛くなりましたから。上記の大きな画像に描かれているのはキリストです。この一枚が畳一枚ぐらいでしょうか。祭壇画は教会の中に飾られるものですから、キリスト教、特に聖書の物語に関連する内容の絵が飾られました。ま、この絵の詳しい内容も省略。
このページ自体が本当に重くて申し訳ありませんが、御勘弁を。これでも足りないぐらいなのです。
畳ほどもある大きな画面に、どれほど細かい表現がなされているか、こんな画像では全く分からないのでス、残念なことに。髪の毛ほどの線が至る所に見られると言えば、少しは伝わるのでしょうか。ヤンはきっと、虫眼鏡を持ちながら作業をしていたに違いありません。キリストの髪の一本一本を区別出来るほどに細かく描かれているのです。
仏教に砂粒で曼陀羅を描くと言う修行がありますが、この絵をみながら、まるで修行僧のようなヤンの姿を思い浮かべてしまいました。ヤンはお坊さんだったわけではありません、職人です。小さな作品、時祷書と呼ばれる本、これもキリスト教関連ですが、詳しくは省略、ともかく、細々した絵も描いていました。
この時代、ネーデルラントでは見えるままを絵に描くことに画家達は大きな力を注いでいました。全てをひとつひとつ、細かく描いていくことが、その方法だと考えられていたのでしょう。少なくとも、ヤンの作品からは、髪の一本一本まで、顔のしわのひとつひとつまでち密に再現することが現実を書き写すことだと彼が考えていたことが伝わってきます。風景の木々の一本一本、否、その葉っぱの一枚一枚まで識別出来るほどに描いています。そうすることで、聖書の世界と言う、目に見える現実では無い事柄が現実になると思えたのでしょうね。
続いて《ファン・デル・プールの聖母》です。題名の読み方は、自信がありません。
大きな画像はこちら(159kb)。
さらに大きな画像はこちら(509kb)。これは現在ブリュッヘの美術館にあります。
マドンナ・ブルーと言う言葉があるぐらいですから、聖母マリアと言えば青い服で描かれたのでしょう。しかし、このマリアは赤い服です。時代や地域によって「高貴な色」と言われるものは様々でした。日本では平安時代は紫が高貴な色でしたし。ただ、マリアの服の色で言えば、やはり主流は青、そして赤だったと思います。まったく性質の違う色だと言うのが、興味深いところではあります。さて、マリアの右側には男性が二人います。このうちの白い服を着た男性がおそらく寄進者でしょう。祭壇画は教会自身が画家に注文する場合もありましたが、その教会に縁りのある人物が絵を注文し、それを教会に寄進する、すなわち寄付することもあったのです。マリアが目の前にあらわれることはあり得ないことですから、この寄進者は幻を見ていることになります。キリスト教では、あるはずのないキリストやマリア、神の姿を見ることを幻視と言います。このマリアと幼いキリストも幻視なのです。幻視は徳の高い、献身的な聖職者にしか現れない特別な現象だと考えられていましたから、寄進者の徳の高さを強調することになりますね。
突然ですが、美術館にある古い絵は、描かれた当時のままの色彩を保っていると思いますか?
どんなに環境を整えて絵を保管しても、長い年月の間に、必ず劣化を起こします。これは、時の為せる技で、人にはどうしようもありません。傷んできた絵画は修復家によって直されます。修復される度に、絵は生まれ変わります。修復する前と、色彩が変わってしまう場合も多くあります。もちろん、赤が黄色になる、と言うことはありませんが、リンゴの赤だったものがが苺の赤になる、と言うことぐらいは起こり得る変化です。
さて、修復家の手にかかった作品は、本当の作者の絵と呼べるものなのでしょうか?
…これを言い出すと、切りがありません。突き詰めていけば、ひとそれぞれに目に見えている色は違うのだと言うことにもなります。リンゴは赤いですが、その赤を見ているあなたと、隣でリンゴを見ている友達と、同じ赤を見ているとは限らないのです。さらにもう一枚。次の絵は《赤いターバンの男》、画家の自画像とも言われる作品です。
大きいサイズの絵はこちら(87kb)。
もっと大きいサイズの絵はこちら(472kb)です。見る人を見返してくる強いまなざし。この絵が自画像であるなら、描かれている男は画家自身です。鏡を使って描いていたのでしょうか、真剣なまなざしは、鏡と、そしてカンバスに向けられたものでしょう。自画像、それだけで無く画家の生み出す全ての作品は、画家の自己投影であると言う考え方があります。ヤンはこの作品にどんな自分を映し出したのでしょうか。
暗い色に統一された背景、また、着ている服にもほとんど色彩は感じられません。おそらく、どんな色も邪魔にしか感じなかったのでしょう。画家が描きたかったのはターバンの赤なのです。ターバンの色をきめるのに、他の色を選ぶことも可能だったでしょう、しかし画家は赤を選んだ。赤こそが、自分を表すのに最も適切な色だったのでしょう。
ヤンにとって赤と言う色がどんな意味を持つものだったのか、彼でなければ分からないでしょう。しかし、今ここにあげた絵で分かるように、キリスト、マリア、そんな人物に彼は赤の色を与えているのです。意味深ですね。
いかがなものでしょうか〜。こんな感じであと6回、ちまちまやって行こうと思います。次は橙ですが…まだ取り上げる画家が決まってません(汗)ダイジョブか?
おそらく印象派あたりで。リクエストも受付中です。是非どうぞ♪