19.海藍


 サメの身体には、魚類に特徴的な浮き袋がない。
だから、彼らが死ぬと、その身体は深い海底に沈んでゆく。
海抜がある程度の深さをこえると、その圧力で、長い時間をかければカルシウムさえ海水に溶けるそうだ。
サメの身体は、顎を除く全ての骨が軟骨で出来ているから、彼らが死んで海底に沈むと、骨さえ海に溶ける。
残るのは、歯とそれを支える顎骨だけ。それさえも、長い時間を経て海に溶ける。

 何の痕跡も残さず、海へ溶ける。

 ひんやりとした壁に、サファイアは身体を預けた。

 ここは、巨大な潜水艦の中。
大地が不毛の地に変わる前から設計、製造された巨大潜水艦リバース。
「再生」という名を冠し、1万人あまりの人々をのせていつまで続くか分からない航海に出た。
今や大地は、どんな生物も存在出来ない状態になっている。
紫外線が降り注ぎ、変質した大気は毒となり、時折、時速100メートルをこえるサイクロンが吹き荒れる。
生き残った人々は、地下やあるいはサイクロンの起こらない極地域ではドームを作り、あるいは海底へ生活の場を移した。

 巨大な潜水艦に住む人々の酸素と水は、海水から作られる。
それを利用して動植物を育てるプラントも艦内にはあり、食料はそれでまかなわれている。
「この世界中で今一番安全なのは海底だ、そこで我々は生まれ変わろう。」
そんな、夢見がちな艦長の言葉に付き従った一万人あまりの人々が、ここで生活をしている。

 サファイアはその艦長の愛人だった。
そうでなければこの潜水艦には乗れていなかっただろう。
この潜水艦に乗っていたのは、艦長の、莫大な資金がかかったこの計画に出資した人だけだった。
言わば艦長の信奉者たち、サファイアはそうではない。
「海の中は安全だ。サイクロンもなければ、地殻変動の影響だってほとんどない」
いつだったかベッドの中で彼が言ったのを、冷たくサファイアは笑った。
海底だって、地上と同じ大地の一部ではないか。何も変わらない。

 そう、何も変わらない。潜水艦の中はまるで、社会の縮図のようだった。
出資額の多かった者がのさばり、権利を主張する。
食料の配分、労働の配分、住む場所、なんでも良いところばかり欲しがった。
最高権力者である艦長に取り入ろうとする者もいた。
男ならば賛辞と女で。その女は甘いささやきと媚態で取り入ろうとする。
どんな状況におかれても、人は変わらない。

 そのうち、異変が起きた。
まずは、家畜たちが犠牲になった。
原因不明の病気で、次々に死んでいったのである。
人にうつる心配はないと医師が言い、人々はとりあえず安心した。
しかし、姑くもしないうちに、今度は老人たちが同じ症状で死に始めた。
その次は子供達だった。
人々は、今度こそ完全なパニックに陥った。
毎日、艦内の消毒が行われたが、伝染病にかかる人はあとを断たない。
艦長は一度地上に出ることを決めた。
サイクロンの少ない極地域へ向かうことを決め、潜水艦は暗い海の中を進んだ。
しかし、移動することをほとんど考慮にいれていなかったため、数ノットしか速度は出ず、
安全な地上に出るのがいつになるか分からないことが、すぐに人々の間に広まった。
人々は不安になった、狂気にかられたと言って良いかも知れない。
伝染病は、やまなかった。繰り返される消毒作業も、ほとんど功を成さない。
今や、生き残っているのは当初の半分の人数だった。
そんな中、脱出艇が何機か備えられていることを知った人々は、その使用を艦長に求めた。
しかし、艦長は許可しなかった。
脱出艇は、長時間の航海に耐えられるものではなかったのだ。
しかし、すこしでも機械に詳しいものは先を争って脱出艇に乗り、艦外に逃れた。
だが、すぐにその消息は知れなくなった。
助かったのではないだろう、と艦長は吐き捨てた。船が壊れたのだ。
伝染病の猛威はやまない。ひとり、またひとりと死んでゆく。
誰もが艦長を責めた。自殺するものも出てきた。
そしてその艦長も、病にかかった。
その頃には、数十人の人々しか生き残っていなかった。
艦長が死んだ時には、十数人の人しか生き残っていなかった。
彼らは、最後に残った脱出艇で艦外に出ることを決めた。
サファイアは船に残ることにした。気が狂っていると、脱出する人々が言った。
彼女はただ笑うだけだった。

そうして、潜水艦には彼女だけが残った。
死んだ人々は海に流されたのだった。

彼らもやがて、海に溶けるのだろうか。

プラントの植物は生き残っていた。
彼女もまだ、伝染病にはかかっていなかった。
もしかしたら、かからないのかも知れない。

しかし、どうでもいいことだった。

脱出艇は消息を断った。

しかし、どうでもいいことだった。

この潜水艦もやがて、海に溶けることができるだろうか。

そのことだけが、彼女には気になった。

暗い 海に 沈み ただ 死を 待つ

生まれ変わりという名のこの潜水艦で



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