54.ワインレッド 『深紅の夢』
(あ、まずい…)
そう思ったのが時すでに遅し。
目の前は暗い闇に閉ざされていた。
自分が倒れた音を、どこか遠くに聞いていた。+++
その日の朝、目が覚めた時には、ぼんやりと異変を感じ取っていた。
(あれ…?)
耳もとでギャンギャン鳴っている目覚まし時計は8時をさしている。そろそろ起きないと授業に遅れる時間だ。
(急がないと、遅れるな…)
そう思ったが、からだが言うことをきかない。起きあがれなかった。気づけば頭もがんがんするし、喉の奥ががらがらいっている。そして、何より眠い。
(起き、なきゃ…)二度寝してしまったことに気づいたのは、とうに正午を過ぎた時だった。ようやく身体を起こして、ベッドサイドの机をあさった。取り出したのは体温計。脇下の冷たい感触に多少不快感を覚えながら、しかし、また2、3分ほど居眠りをしてしまった。改めて熱を測ると37.5度…。起きられなかった原因はこれか、と落胆する。
時計を見れば2時半、今日の授業はあらかた終ってしまっている。幸いバイトもないし、ここは寝てしまえ、と決め込んだ。夕方過ぎに再び目を覚した。体調はそこそこ回復したようで、頭痛はとりあえず治った。もそもそと起き上がり、外に出る仕度をする。前回用意していた食料が底をついたのを放っておいたのが仇になった。家に食べ物がない、なければ買って来るか外食するしか食事をとる方法はない。いつも食事は外でとることが多かったため、家に食材が揃っているということはあまりない。体調を崩しても、一人暮らしなのだから自分で食事を用意する以外ないのだから、多少ふらつく足下を無視して、スーパーに行くことにした。たいてい、調子を崩した時はいつもこうだ。よろよろと自転車をこぎ出す。道端には昨日降った雪がまだ残っていた。
寒さに身を縮めながら歩いて、ようやく買い物を済ませたまでは良かった。帰り道、いつものクセで煙草を取り出し、火をつける。体調が悪い時ほど、煙草の一口めはおいしい、しかし、身体にとってはいい迷惑だろう。さっそく、不調を訴えてくる。目眩がして、一瞬自転車のバランスが崩れる。
食事をとっていないことが、めまいに追い討ちをかけた。ふわふわと心もとない感覚が身体を襲い、視界が狭くなる。次の瞬間、からだが傾いだ。意識が遠のく瞬間は気分がいい。自分という枠から、意識が自由になる。我も彼もなく、そこには此処も彼処もない。空間も時間もその一瞬には意味を無くす。
その暗闇は、どこまでも暗く、しかし、あたたかいし、心地よい。血の色を少し映した真紅の闇は、もしかしたら胎内に似ているのかも知れないと思った。目の前が闇に閉ざされる。
ああでも、もういいや。がしゃん どさっ
目の前は闇。ワインレッドの色に抱かれて、凍える外で倒れた。
したたか身体を打った痛みで、無理矢理意識は闇の中から引き起こされる。自転車から完全に投げ出される格好になった。
起き上がるのは面倒だった。しかし、歩道であると言っても、ど真ん中で倒れているのはちょっと、否、大分邪魔だろう。
ちっ、理性もばっちり覚醒してやがる。「大丈夫ですか?」
柔らかい女性のような声のトーンが耳に心地よく響く。ええ、すみません。と答えて、こんな時なんで人は謝るんだろうとおもった。ゆっくり身体を起こす。身体を打ったようだが、折れたり血を流しているような感じはしない。というより、感じられない。明日になって気づくのかも、とちょっと思った。
道端に座り込む。声をかけてきた人はがさがさと散らばった荷物を拾ってくれた。声で一瞬女性かと思ったが、意外と背の高い男性だと気づく。真っ黒なコートを着ていた。何故か、気まずさがました。倒れた自転車を起こしてこちらを見ている。「あー、すみません、ありがとうございます」
「いいえ、ヤミに足を取られたんですね?」え?と思って思わず男に目を向けた。
雪に足を取られたと、普通ならば思うだろう。
なのに、この人物は確かに、ヤミとそう言った。「今回は特別サービスです。でもお安くはありませんよ。この自転車はいただきましょう」
なにを、と問い返そうとしたが、こつ然と男の姿は消えていた。自転車もなくなっている。
狐につままれる、とはこのことだろうかと思った。
確かに男はいた、いたはずだ。
激しく転んだはずなのに、その痛みは体中に残っているのに、荷物はちゃんと元通りになっている。
ただ、自転車だけがない。ああ多分、僕はワインレッドの夢を見たのだ。